前回に続き、甲府ジュリーの歴史
大正時代のお話をしていきます。
明治時代
甲府の水晶産業は、非常に質の良いといわれている「甲州水晶」の産地である強みを活かし
技術や産業を伸ばしてきました。
全国的にも認知されて名を広げてきた隆盛期に
山梨で採掘できる水晶の原石が少なくなり、遂には枯渇してしまいましたが
大正初期になると、ブラジルからの同規格品の水晶が沢山輸入されたことで甲州水晶工芸の危機が救われました!
大正時代
ブラジルから沢山の水晶が入ってきたことで水晶工芸は続き
初めての輸入ものに対して否定的にならず、積極的に取り入れた業者の行動があったからこそ
今の甲府に繋がったんだと思います。
また、第一次世界大戦の影響で市場が海外に向いたこともあり、 国内の景気が良くなったとともに貴金属工芸の存在も大きくなってきました。
これまでにかんざしや帯留めなどをつくっていた「かざり職人」は
徐々に貴金属工芸へ移行していき水晶工芸と結びつきが強くなりました。
水晶を使ったブローチやカフス、水晶製のメガネレンズなど多くの宝飾品が生産されていたそうです。
また、より華やかな商品をつくるために素材に金を使用して金の指輪やネックレス、メガネフレームなどもつくられていたそうです。
こうして貴金属工芸の基盤が作られていき、手作業で行っていたものつくりも機械を駆使して量産出来るように発展していったそうです。
昭和
昭和に入り、経済が戦時体制へと変化し
宝石の輸入にも制限がかかり原石の仕入にも大きな打撃がありました。
これまでの水晶工芸を製造することが難しくなった反面
通信機器や望遠鏡に使われる発振子や光学レンズなどの軍事需要が急激に増え、産業全体が強制的に軍需産業へなったと言われています。
第二次世界で甲府は空襲を受けて破滅的な状況下にありましたが、軍需工場が増えていたことで研磨技術が衰退することもなかったことと
進駐軍の兵士たちが水晶細工や指輪、ネックレスなどの工芸品を土産に沢山購入していったことで
戦後、水晶工芸や貴金属工芸は復活して再建に繋がりました。
継承されていく甲府
戦後からは再び甲府の産業再建の為
新たに水晶のみならず様々な宝石を取り入れ
時代に合わせたデザイン性のある装身具を製作していきました。
金のほかにも真鍮製、銀製のものと
幅を広げ、産業を拡大していきました。
水晶の産地から研磨技術の発展
貴金属工芸との深い繋がりから産業として確立し
沢山の職人や業者、アトリエが集まる
現在の「宝石の街甲府」へとなっていきました。
いつの時代も人のつくり出す
想いが込められたものや
受け継がれてきた技術は
消えることになく
継承されていくんだと改めて感じました。
今でも続いている甲府ジュエリーの歴史が更に発展していくことを願っています。