今回は先日少しお話をしました「甲府」と「ジュエリー」に関する歴史についてお話をしていきます。
その歴史は縄文時代に、沢山の水晶が採れたことから始まり、江戸時代にかけて加工技術に大きく進化を遂げ、今日に至る甲府の地場産業に繋がる出来事がありました。
縄文時代
縄文時代、狩猟に使う鏃(やじり)には
一般的に黒曜石といわれる火山岩の一種が使われていたそうですが
沢山の水晶が採れた山梨県では、鏃に水晶が使われていたそうで
歴史上では水晶加工の始まりだと言われています。
また、水晶製の石器も発見されていて
黒曜石に比べて非常に硬い水晶をあえて加工して
使われていたことから、水晶に対しての特別な意義をもち
既に高い加工技術がそこにはあったことが分かります!
江戸時代
そして、江戸時代。
当時、水晶は原石のまま置物にして飾ることが主流でしたが、山梨の「水晶加工の始祖」と呼ばれる人物が現れ
≪玉造≫といわれる水晶玉への加工技術を伝えました。
それは、京都から水晶の買い付けに訪れてきた
≪玉屋の弥助≫という人物です。
当時水晶の採掘は幕府によって禁止されるようになっていて
自然に地表に露出されるまで待たなければならない状況でした。
そこで弥助は待っている間に、水晶の名産地「昇仙峡」にある
「金桜神社」の神宮たちに水晶を磨いて見せ
その技術を教えました。
現在「昇仙峡」は水晶を採掘していた金峰山一帯に位置する山梨の観光名所になっています。
当時、その時に弥助の作った水晶は今でも金桜神社の社宝とされています。
弥助が伝えた研磨技術はこれまでにない早さと、より美しい水晶ができたそうです。
これは明治時代まで続き
甲州産の水晶は品質が良くて透明度も高く
今のダイヤモンドに近いものがあったそうで
明治維新後までは「水晶」ではなく「水精」と呼ばれていたそうです。
その後、甲州水晶は産地である強みを活かして発展をしていきました。
甲府のジュエリーの起源ともいえる
水晶の玉造
それを伝えた京都の玉屋弥助の存在。
まだ水晶の発掘が禁止されていて甲州水晶は広く知られることはありませんでしたが研磨加工技術の大きな発展がおきた江戸時代後期から
明治時代に入る頃、
更なる発展がありました。