ガラス作家としても有名な歴史に名を残すジュエラー「ルネ・ラリック(RENE LALIQUE)」
19世紀から20世紀にかけてのアールヌーヴォーの時代には後世に大きな影響を与えた異色なジュエラーです。
ジュエリー界で異彩を放ち、独特で奇抜なデザインを生み出してきた芸術的天才ジュエラー 「ルネ・ラリック(RENE LALIQUE)」 の歴史についてお話をさせて頂きます。
20世紀の天才アーティスト
フランス人「ルネ・ラリック」(1860-1945)のジュエラーとしての始まりは、最初のアトリエを開いた1885年だといわれています。
後の1905年には、ヴァンドーム広場に店を開き、1913年にはガラス工房を買い取るなど様々な活動を行っていました。
現在では、ガラス作家としてのイメージが強く見られているラリックも始まりは宝飾職人としての活動でした。
作品がガラス工芸へと変わってきたのは1912年以降の事で、それまではアールヌーヴォー様式の金細工やジュエリーデザイナーとして活動をし、ジュエリー界へ大きな影響を与えてきました。
1876年、父親の死後16歳のラリックはパリの宝飾職人「ルイ・オーコック」の店で見習いとして働きます。
同時に、夜間は装飾美術学校「エコール・デ・アーツ・デコラティフ」に入学し、金細工や宝飾を学びながら技術を磨いていきました。
その後、1978年18歳の時にロンドンに渡り「サイデナム・カレッジ」で2年間教育を受けます。
1880年にはパリに戻り、宝飾職人だけではなくデザイナーとしても活動を始め、多くのジュエリーを宝石店へ提供していたそうです。
なかでも「オーコック」、「ジャクタ」、「カルティエ」、「ブシュロン」、「ヴェヴェール」などの宝石店とも取引があったそうです。
その当時のラリックのデザインは、伝統的な控えめなものだったそうです。
1885年には、デザインを納めていた ガイヨン広場にある宝石商「ジュールデステープ」 からアトリエを買い取ります。
その後の1910年頃までの期間が、宝飾職人、デザイナーとしての絶頂期だったと言われています。
ラリックは数々のコンテストに出品をして優勝を果たしていきます。
そして、1900年のパリ万博でも多くの人気を集め、高い評価を築いていきました。
また、パリで有名な舞台女優「サラ・ベルナール」のためにジュエリーを製作するなど、当時のジュエリースタイルに革命をもたらし「今までに見たことのないものを作りたい」という彼の活動から、「現代のジュエリーの発明者」として称賛されていたそうです。
更に同年、ラリックはフランスの「レジオンドヌール勲章」の役員にも任命されました。
そして、ラリックは次第にガラス工芸への関心が深まり、香水店の「フランソワ・コティ」から香水瓶の注文を受けたことから本格的に活動がガラスへと変わっていきましたき。
独創的な表現を追及する為の素材選び
ジュエリー史上ラリックのジュエリーは非常に珍しく異色なデザインなものと印象付けられています。
それは、デザインの発想力と奇抜さ、そしてそのアイデアをジュエリーとして形にするための素材選び、更に製作時の加工技術の高さにあるといわれています。
そのデザインは、女性の顔や身体、自然界の植物や昆虫、動物などを取り入れたもので神秘的なものから一見グロテスクな奇抜なものまで独創的なものが多く、ジュエリーとしては考え難いデザインです。
しかし、全て見事にジュエリーとして形にして表現されています。
そして、ラリックはこうした独創性に溢れた作品に仕上げるために、素材選びにも斬新な発想で製作をしていました。
使用していた素材には、動物の骨、象牙、ガラス、七宝、オパール、バロックパールなどがあり、金の板の打ち出しや硫化して黒くなった銀など特殊な加工の地金にダイヤモンドや色石を要いてつくっていたそうです。
素材の価値よりもデザインのフォルムを重視し、表現する為に適したものを選んでいたことがよくわかります。
ガラス作品をにのめり込む
ジュエリー界で成功を遂げていたなかでも、1900年頃からラリックはジュエリーではなくガラス工芸に興味を見せ始めます。
それまでは、ジュエリーを製作する際にガラスを宝石の一種として使用していました。
しかし、次第にガラスのみを使ったジュエリーが増えていきました。
1910年前後になると、ガラス工芸の興味は急速に増していき、表面を化学処理によって色付けたガラス(パティナ)や、蛇、魚、鳥の形に鋳込んだ色ガラス、裏面からインタリオ状に絵を彫った板ガラスなど様々な加工ガラスを使ったジュエリーを生み出していきました。
1905年、「ルネ・ラリック」はヴァンドーム広場24番地に店を開業します。
そこではジュエリーだけではなく、これまでにアトリエで製作されてきたガラス製品も展示されていたそうです。
当時同じヴァンドーム広場に店を構えていた調香師の「フランソワ・コティ」は、ルネ・ラリックのデザインに非常に感銘を受けていたそうです。
そのため、ラリックの才能を香水業界で生かせるようにと香水瓶の製作を依頼しました。
このコラボレーションにより香水業界にも革命が起こり、珍しく魅力的な香水瓶に入った香水を人々が手に入れやすい価格で提供することが初めて可能になったそうです。
その後1912年、ラリックはガラス作品だけの展示会を開きます。
それからジュエリーを製作することを辞め、ガラス工芸にのめり込むみます。
香水瓶を始め、壺や置物、列車や建築物の内装装飾など幅広く作品を生み出してきました。
1945年、ルネ・ラリックの死去。
息子のマークが事業の責任者を引き継ぎました。
マークによって「ラリック」は更にガラスの時代へと進んでいき大きな成功を遂げています。
始まりは宝飾職人であった歴史上類のない、独創性と技術を取り備えた 芸術的天才ジュエラー「ルネ・ラリック」。
現在でも、多くアーティストへ影響を及ぼし、その創造性は継承されているんですね。
真の創造性が表現されたジュエリーを生み出してきたラリックのジュエラーとしての歴史をお話させて頂きました。