歴史

日本の老舗ジュエラー ミキモト(MIKIMOTO)の歴史 【前編】

日本の老舗ジュエラー ミキモト(MIKIMOTO)の歴史 【前編】

世界的に有名な日本を代表する老舗ジュエラー。
真珠の養殖に人生を捧げ「真珠王」と呼ばれた創業者の想い。
世界に名をはせた真珠の代名詞
「ミキモト(MIKIMOTO)」
創業から、120年以上続く歴史の深いジュエラーです。
養殖真珠の創始者であり、日本ジュエラーの基盤を築いた、
ミキモトの歴史について2回に分けて、お話をさせて頂きます。

世界で初めての養殖真珠

ミキモトは、日本人「御木本幸吉」によって発明された養殖真珠とそのジュエリーを販売するために、
1899年(明治32年)に銀座に創業されたジュエラーです。
1893年には既に、半円真珠の養殖を成功させていて、後に真円真珠の養殖にも成功させます。
その後、「ミキモト」の名は真珠の代名詞として世界中にその名を広げて、御木本幸吉は真珠王として知られることになったそうです。
現在でもブランドとして世界に通用する稀に見ない日本を代表するジュエラーです。

真珠王というと、科学的な努力を重ねて養殖真珠の開発に取り組んできた発明家のように思えます。
しかしそれだけではなく、本質的には、無謀な挑戦に挑み続けた実業家であり、養殖真珠というものを
世界に通用する商品にまで築き上げた長けた商才に、その偉大さがあるといわれています。
実際に現在では、真珠の養殖技術は他にもあり、御木本が宝飾史に名を刻むこととなったのはその商品やビジネスにあったということなんですね。

しかし、世界で初の真珠の養殖に成功したことから、真珠の養殖産業にも日本のジュエリー産業にも
ミキモトなしでは、発展は無かったといわれています。
この二つの産業に残した功績は非常に大きなものなんですね。

そして、ミキモトは「半円の真珠」から「真円の真珠」への養殖に成功し、
同時に、20世紀の初めから真珠を使ったジュエリーをつくるために優秀な職人たちをヨーロッパなどの海外へ派遣したそうです。
そこで当時の最先端であった「アールヌーヴォー」や「アールデコ」などのデザインや技術を習得させて、
欧州や欧米の最新の技術を導入するなどの多くの先行投資を行っていたそうです。

1907年には、日本で最初ともいわれているジュエリーのアトリエ「御木本金細工場」をつくります。
そこで、海外から習得して取り入れた技術を日本に発信していったんですね。
これが日本のジュエリー産業の基礎だといわれています。

世界に向けて広報活動

また、ミキモトはビジネス面でも海外の万国博覧会に出品を続けて活動をしていたそうです。
日本の真珠を広めるために、26年にフィラデルフィア万博覧会で「五重塔」、
37年のパリ万国博覧会に帯留めの「矢車」、
39年にはニューヨーク万国博覧会で「自由の鐘」を出品しました。
そこで展示をして、多くの人に驚きを与え、注目を集めていたそうです。
真珠を使ったオブジェやジュエリーは単純に真珠としての見せ方ではなく、
趣向を凝らしたインパクトのある作品だったため新聞などにも多く取り上げられていたそうです。
今でいう広報の先駆けといえる活動を実行していたんですね。
実際に、日本国内では、07年からすでに広報紙ともいうべき「真珠」という
小冊子を毎年発行していたそうです。

継続的に海外での万国博覧会へ出品しするなど活動をしていきます。
そして、ミキモトの養殖真珠はその名を世界に広めていきますが、
ロンドンの新聞記事が切っ掛けで裁判になってしまったそうです。

次回はミキモトの世界に進出について後編をお話をさせて頂きます。