歴史

日本の老舗ジュエラー ウエダジュエラー(UYEDA JEWELLER)の歴史 【前編】

日本の老舗ジュエラー ウエダジュエラー(UYEDA JEWELLER)の歴史 【前編】

日本で最も歴史のある老舗ジュエラー。
華やかな鹿鳴館時代に創業された
「ウエダジュエラー(UYEDA JEWELLER)」
創業から130年以上も続き、4世代に渡り継承されているジュエラーです。
上品で気品のある一流品を取り揃えた欧州型の
ウエダジュエラーの歴史について2回に分けて、お話をさせて頂きます。

日本で最も歴史のあるジュエラー

「ウエダジュエラー」は、1884年(明治17年)創業という我が国最古の日本を代表する老舗ジュエラーです。

販売するジュエリーは、自社で製作している欧州型で、当時の日本では極めて珍しいジュエラーといわれています。

84年に、初代創始者「植田吉五郎」により現在の銀座電通通りに「植田商店」が開業されます。
当時独学で英会話を習得し、外国人向けに日本の伝統美術工芸品を販売していたそうです。

薩摩焼の花瓶や皿、象牙の彫刻品、銀器や置物などを取り扱っていて、
なかでも評判が良かったものが平戸細工の装飾品だったそうです。

吉五郎の妻の祖父である「桑原熊吉」は平戸細工の模様をつくる著名な細工師だったそうで、
熊吉のつくる銀線で描かれた文様に七宝を施した装飾品は、外国人客に非常に人気あり、
完成を待ちわびては、買い求めにきていたそうです。

目利きに長けていた吉五郎の仕入れる商品は多くの外国人客に注目され、
お店の名を馳せていくようになったそうです。

その後、世界的建設家として知られる近代建設の三大巨匠の一人
「フランク・ロイド・ライト」の設計で
1923年に竣工した帝国ホテルのアーケードに店舗を出店しました。

世界中の貴賓を迎える日本の迎賓館として新築された帝国ホテルに店舗を構えることで、
ウエダジュエラーの名前は国内外に広く知られることになりました。

現在でも残っている顧客のサイン帳には、
女優のマリリン・モンロー、ジーナ・ロロブリジータ、ソフィア・ローレン、
俳優のチャールトン・ヘストン、
プロ野球選手のベーブ・ルース、ジョー・ディマジオ、
歌手のフランク・シナトラなどのスター達から
マッカーサー夫妻、キッシンジャー夫妻、ライシャワー夫妻など
政財界の数々の要人の名前が残されているそうです。

更に、二代目の「富士郎」と「義己」兄弟の手で、本格的にジュエリーの世界への進出しました。
26年の大正天皇崩御の年に、多くの大使館から銀による花輪の注文を受けたこたが切っ掛けで、
外国人用に銀器、養殖真や翡翠を使ったジュエリーなどへと幅を広げていったといわれています。

その後、終戦後には日本人にはとても買える時代でなかったため、
アメリカ人を中心とする来日外国人客を相手に真珠などのビジネスで成功したそうです。
真珠製品の統制が解除され、空前の真珠ブームが到来しました。

ウエダジュエラーは、どこよりも早く上質な真珠を確保します。
その品質が評判を呼んで、パリのヴァンドーム広場にある老舗ジュエラーとの取引もあったそうです。

アコヤ真珠から大粒の南洋真珠まで、厳選された上質な真珠を使ったジュエリーは、
ウエダジュエラーを代表する商品として、多く生み出されてきました。
更に、真珠に続きダイヤモンドや貴石、半貴石のさまざまな宝石を素材使ったデザインへと幅を広げていきました。

63年には、三代目の「植田新太郎」に継がれます。
73年に、当時では珍しかったイタリア製のジュエリーを自ら現地で調達し、日本で展示会を開きました。
高度成長に支えられた日本人の富裕層が本格的にジュエリーを買い始め、イタリアンジュエリーブームの火付け役となり、
そこから日本人のための本格的なジュエラーへとなっていったそうです。

81年頃から本格的なブランディングが始まり現在の「ウエダジュエリー」へと店名も変わりました。

次回は、ウエダジュエラーの100年以上続く中で、
最も重要な経営体制についてお話をさせて頂きます。