歴史

世界5大ジュエラー ティファニー(TIFFANY)の歴史前編

世界5大ジュエラー                 ティファニー(TIFFANY)の歴史前編

日本でも多くの人に愛され、親しまれている世界の代表的なジュエラー
アメリカの「ティファニー(TIFFANY)」
世界5大ジュエラーのひとつで、創業してから2人の天才デザイナーによって
今に繋がる基盤や後世に残るティファニーセッティングを生み出してきた歴史があります。
今回は、その「ティファニー」の歴史について2回のに分けてお話をさせて頂きます。

世界に名をはせた銀器

1837年、アメリカ人の「チャールズ・ルイス・テイファニー」(1812-1902) が
友人「ジョン・ヤング」と開いた、ティファニーの前身でもある
宝石店「ティファニー&ヤング」が始まりでした。
その店で最初に取り扱っていたのは、特に日本や中国の東洋から仕入れた雑貨や
鉛ガラスなどを使った装身具でした。

泥棒に入られるなどのトラブルはあったもの、事業は順調に伸びていました。
40年には新たに「エリス」を加えて、名前を「ティファニー・ヤング&エリス」となりました。
45年にはティファニーは、取り扱う商品を雑貨や装身具などから、パリやロンドンのジュエラーが扱う本物の
ジュエリーに転換しました。
41年頃からティファニーは、ヤングをパリに送りだしていたいました。
50年には、ブシュロンとの大きな取引に繋がる切っ掛けとなった「ギデオン・リード」加わり、パリに支店を設けます。

またティファニーは、アメリカ国内で競技の優勝カップなどの大きな銀器に需要があると考えました。
その時、アメリカで一番の技術をもつといわれた銀器職人の「ジョン・ムーア」と専属契約を結びました。
これがが将来高く名をはせることになる、ティファニー銀器の始まりといわれています。

パリ万国博で金賞受賞


ティファニーはジュエラーという仕事をするうえで常に瞬時な発想力を重視し、
一刻も早く仕事に取り込んでいくという才能に長けていました。

そして53年には、共同経営者の二人「ヤング」と「エリス」は引退します。
この時、「ティファニー&カンパニー」というティファニーの独立会社が誕生することになります。
最初、ブロードウェイの259番地に開いた店は、271番地へ移転し、53年には550番地へと景気の波とともに転々としていきました。

67年のパリ万国博で、ティファニーは自社の銀器を出品して銅メダルを獲得します。
更に、70年にはニューヨークにあるユニオンスクエアに移転して、ティファニーは全盛期を迎えました。

78年には、ティファニーが歴史に名を残す重要な出来事が二つ起きます。

ひとつは、当時開催されたパリ万国博でティファニーは銀器の部門でグランプリ、
そして、ジュエリーの部門で金賞を獲得と華やかな功績を残します。
これは当時の欧州の人々に大きな衝撃を与える出来事でした。
それは、当時のアメリカのイメージはあまり良いものではなく
欧州を上回るような優れた作品が出てきたことが予想外のことだったからです。

伝説のカナリーダイヤモンド

もうひとつの出来事は、ティファニーはこの年に南アフリカのキンバリー鉱山で採掘された
287カラットの見事なカナリーダイヤモンドの原石を購入してカッティングしました。
それが、世界で最も有名なダイヤモンドのひとつとして知られる
128カラットの「ティファニー・ダイヤモンド」です。
これは現在でも、ティファニーの本店に展示されておりジュエリーの歴史にティファニーの名を刻む大きな出来事になっています。

そして、ティファニーは着実に、ジュエリー業界のトップへと登りつめていき
世界5大ジュエラーのひとつになりました。

ティファニーは欧州の名高いジュエラーと肩を並べて、英国をはじめロシア、オーストリアなど
多くの国王たちの御用達のジュエラーとなりました。

ティファニーが歴史に名を残す切っ掛けともなった銀器とキャナリーダイヤモンド。
その後、2人の天才デザイナーによって更なる飛躍と
恐慌の時期について次回お話をさせて頂きます。