永遠の愛と絆の証として多くの人に愛されるジュエリー。
フランスを代表する名門ジュエラー
「ショーメ(CHAUMET)」
フランスのヴァンドーム広場にメゾンを構えて240年続く歴史の深い
ジュエラーで、5大宝飾店(グランサンク)のひとつでもあります。
今回は、「ショーメ」の歴史についてお話をさせて頂きます。
ショーメの始まりと経緯
「ショーメ」は非常に古くから歴史のあるジュエラーですが、
他にない珍しい経緯がありました。
1780年に、ジュエラーの「マリ・エティエンヌ・ニト」(1750-1809)が店を出した
ことが「ショーメ」の始まりでした。
1812年、息子の「フランソワ・ルニョー・ニト」(1779-1853)が後を継ぎ、
ジュエラーとしては初のヴァンドーム広場15番地にアトリエを移転します。
1815年に、職人であった「ジャン・バティスト・フォッサン」(1786-1848)が後を継ぎます。
その後、息子の「ジュール・フォッサン」(1808-1869)は
「ヴァランタン・モレル」(1794-1860)と共に後を継ぎ、48年にロンドンに進出します。
しかし、多くの顧客を獲得してはいましたが、4年後にはパリに戻りました。
54年、ジュール・フォッサンはヴァランタン・モレルを支配人に任命します。
62年にはヴァランタン・モレルに経営を任せるまでになり、85年まで営業を続けたといわれています。
そして、その年にモレルの娘「マリー」と結婚をした「ジョセフ・ショーメ」(1852-1928)がメゾンに加わります。
89年には、ジョセフ・ショーメに経営を任せる事になり、ここで初めてジュエラー「ショーメ」が誕生します。
代々伝わる一族で築いているジュエラーが多いなかで、非常に複雑な経緯ではありますが、とても縁を感じる関係性ですね。
ナポレオン一族に愛されるジュエラー
創始者のニトは、息子と共に事業を築きナポレオン一世とその一族から御用達のジュエラーとされていました。
当時の作品も今でも多く残っていて、法王ピウス七世に贈った宝冠やスウェーデン王家に伝わる真珠とカメオのティアラ、アメリカのスミソニアン博物館に展示されているブリオレットカット・ダイヤモンドのネツクレスなどの作品が残っているそうです。
ナポレオンが失脚してブルボン王家の絶対王政が復活したルイ・フィリップの時代も、メゾンを継いだもフォッサンは、時代の流れであるロマン主義をとらえて、時代に合ったジュエリーをつくり続けて上手く潜り抜けていきました。
フォッサンの作品には花や動植物といった自然のものをモチーフにしたなデザインがありましたが、一方で、ゴシック様式やルネサンス風のもの、古代の遣品を感じさせるような作品など多様なデザインの
ジュエリーでその時代に合わせた作品も多く生み出してきたといわれています。
ナポレオン三世の第二帝政期、その妃ウージェニーとフォッサンは古くから交流があったため、その関係もモレルに引き継ぎ、ジュエリー愛好家のウージェニーのために、多くのジュエリーをつくり続けていたといわれています。
この時代の作品は非常に幅広く、ジュエラー独自の創作品というよりも顧客の要望に合わせた作品が多かったそうです。
「ショーメ」の新時代
75年、モレルの娘マリーとジョセフ・ショーメは結婚しました。
その時期は、ナポレオン三世が英国に亡命して、次のよき時代といわれているベルエポックの時代を作る産業革命がおきるまでの厳しい時代であったそうです。
その中でもショーメは、フランスに残っている責族や、アメリカからきた富裕層の一族、ロシアの貴族たちに大きなティアラ、ブローチ、ドッグ・ネックレスなどの正統派なジュエリーをつくり続けていました。
そして、女性の社会進出に伴うアールデコの時代になると、ショーメの息子「マルセル・ショーメ」(1886-1964)の世代になります。
この時もショーメは、典型的なアールデコ様式のジュエリーを多くつくり出していて、アールデコの様式を上手く取り入れながら、彩りのあるカラフルなショーメらしい作品がつくられていたそうです。
その後、数々の作品を世に生み出し続け、99年には国際的な投資会社のLVMHモエ・ヘネシー・ルイ・ヴィトングループの所有となり現在も営業を続けています。
「永遠の愛と絆」の象徴とされているショーメのジュエリーをは、創業から240年以上経つ現在でも多くの人に愛されています。
ストレートな気品のある堂々としたデザインで大きすぎないジュエリーが特徴なので、日本人にも合うものが多くあり、今後も注目するべきジュエラーです。