前回に続き、甲府ジュリーの歴史
明治時代のお話をしていきます。
未だ幕府の命令により、採掘の禁止があった江戸時代から、明治維新の前
横浜港の開港がありました。
その時、一人の少年が海外製のガラスでオブジェを作ったことがきっかけで
水晶細工が浸透してきたそうです。
研磨技術から発展し、水晶細工が始まったんです!
明治時代前期
明治時代に入ると水晶の採掘も解禁になり
甲州水晶の採掘や業者までも盛んになって隆盛期を迎えました。
そしてその後、根付やかんざし、帯留などの飾りの需要も増えていき
職人の育成にもさらに力いれて、甲府の水晶産業は最盛期を迎えたそうです。
しかし、あらゆる業者の過剰な採掘により甲州水晶の産出量が
急激に減少してきました。
その影響もあって明治時代に入ってから川が氾濫するなどと
水害が多発していたので、再び規制が増えたそうです。
採掘のため森林を盗伐や乱伐、採掘後の坑道の放置などが
原因だったとみられています。
明治時代後期
加工技術がますます進化を遂げてきて
加工方法も手磨りから機械を使った円盤磨りへと変わり、近代化が進みました。
当時、水晶彫刻界の第一人者といわれる土屋華章氏による
研磨加工用機械が開発されました。
当初は、足踏み式のものだったが後に改善され
設備は電気化され更に生産効率と技術を発展させていったそうです。
この頃、カタログとして山梨の特産物「葡萄」、「ワイン」、「和紙」も一緒に宣伝され行商人と通信販売の活用で「甲州水晶」として日本全国へ広まりました。
これが甲府ジュエリーの流通の始まりでした。
このように明治時代には、後の宝飾産業に繋がる大きな発展がありました。
産業の技術発展と「甲州水晶」の名が広まったことで、ますます原石の調達も難しくなり、甲府の水晶産業は過渡期を迎えていきます。